1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 03:38:27 ID:tel6/8ib0
余りにも有名な呂后の人豚から
20世紀の清末まで行われていた凌遅刑など
中国史における「これは残酷な…」と思われる刑罰等について
正史野史などから引用して語り合うスレです。 117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/11(月) 18:34:43 ID:Lp8V7YR3O
>>1人豚 手足を落とし、目玉を刳り貫き、耳を聞こえなくし、喉を焼き声を出せないようにした他、
鼻も削ぎ取ってる
かつての美貌を知る人物達に見せ物にした後に、便所に捨てた150 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/17(日) 16:30:52 ID:w5e7O9VL0
刷洗 …罪人を裸にして鉄板の上に乗せ、煮えたぎった湯をかけながら鉄の刷毛で皮や
肉をこすり取って殺す方法
(;´皿`)ヒィー
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/03(金) 03:40:11 ID:UKrUMjzB0
明の正徳五(1510)年、悪宦官として名高い劉瑾は謀反のかどで
凌遅の刑に処された。以下はそれを見聞した張文麟の記録である。
劉瑾はすでに肉を削がれ始めていた。執刀回数は3357刀、10刀ごとに
息を入れ、一喝して正気に戻す。第1日目は親指から手の甲、胸の左右へと
357刀肉を削ぎ取った。最初の一刀には多少の出血があったが、二刀目からは
出血が無い。恐怖で血が下腹部や脹ら脛に溜まり、削ぎ終わってから胸を開けば
一挙に噴き出すという。夜になり、劉瑾は監獄に護送され、そこでなお二椀の粥を
食べたという。賊のしぶとさ、かくのごとし。
翌日は城内の東に場所が移された。昨日劉が宮中の秘密を暴露したため、今日は
口に胡桃の殻が押し込まれている。劉瑾は十数刀肉を削がれたところで気絶した。
やがて日が昇り、監督官が屍を解体する、と宣言した。劉瑾の被害者たちが
削がれた肉の山に殺到した。その肉で殺された者の冥福を祈るためである。
屍の胸に斧が振り下ろされ、血や肉が数丈も飛び散った・・・
被害者やその遺族たちは劉の肉片を生で食べ、恨みを晴らした、という。7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 12:18:40 ID:HbSCKrE20
なんだかグロいスレになりそうな悪寒だが努めて冷静に語ろう。 牛裂きが文章を読んだだけで想像して気分が悪かった。
有名な人豚は、西太后もやっているが男がされた例はあるのだろうか?
それと、男にとって宮刑もかなり残酷であると思う。9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 13:41:30 ID:D1sg34l30
>>7 宦官に関しては、中華文明圏に限らず、ユーラシア大陸全般に見られたものだね。
発祥は、遊牧民的な文化なのかな?10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 13:57:20 ID:HbSCKrE20
俺も牛裂きのくだりを読んでいると股に神経がいく。
宦官は中国以外にもあるとは何かで読んだが
そんなに多くの国々にあったのは知らなかった。
孫子も宮刑になったんだっけ?12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 14:13:48 ID:OKgsZ1910
宮刑に遭ったのは司馬遷。
孫ピンが遭ったのは脚斬りの刑。
牛裂き、車裂きも怖いが、腰斬りも怖い。
巨大な斧や押し切り機で、胴体をザクッと切断してしまうんだよ?15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 14:46:51 ID:caHfU9Ke0
何晏とか金聖嘆とかがされた腰斬てのは
腰から真っ二つにされると即死はしなくてじわじわ死ぬんだっけ?16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 14:53:24 ID:OKgsZ1910
そうだよ。
胴体切断は、自分の体が真っ二つになって、内臓がはみ出すのを眺めながら死んでいくんだ。17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 15:03:10 ID:caHfU9Ke0
つまり大事な臓器がきれいに残って失血死するわけ?
その前にショック死しそうなもんだが…18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 15:15:32 ID:OKgsZ1910
いや、内臓がきれいに残るとはいえないな。
へその辺りからザクッと斬るから、小腸がグジャグジャになるだろ。19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 16:35:08 ID:l9N8qjd9O
綺麗で有名な姫様を
肘と膝から手足を切断して、鼻を削ぎ落として、便所の底で飼った人って誰だっけ?20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 17:05:01 ID:caHfU9Ke0
オリジナルは多分、呂后34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/05(日) 00:17:16 ID:TVy6wzwK0
武后も人豚をやったんだっけ?武后はとにかく何人もの妃を追放したり殺したりしているからな。
最初に人豚を考案したのは誰だろう。
やはり呂后なのか、それとももっと古い時代から伝統的にあったのか。
ただ、西太后の映画に出てきた人豚は喋っていたが本当の人豚は喋れなかったはず。
呂后が戚姫を人豚にした際には、四肢の切断に加えて、目を潰し耳を聞こえなくして
声も出せないような状態にしたと読んだ。つまり、ただ生きて呼吸をしているだけの存在。
その状態で餌だけ与えられ飼われている。この世にこれ以上の生き地獄があるだろうか。35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/05(日) 00:47:04 ID:RU/DPKTX0
しかも便所に投げ込んだんだよ。
傷口からばい菌が入って、苦しみながら死んだであろう。
第一鼻は残っているから、嫌でも悪臭を嗅いでしまうし。37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/05(日) 03:40:24 ID:0amQHmU8O
>>35 鼻を落とされて本当の豚みたいにされた女もいる。38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/05(日) 10:23:10 ID:5seZ5oEg0
>>35 便器は高い箇所に作られ、
排出物がそのまま下に落ち(田舎の汲取り式のような感じかなー。
そしてその排出物を豚が食べられるような厠作りになってたようですね。
で、その落ちてくるところに四肢切断した人間をおく。
そこから人豚と名付けられたというような話を聞いたことがあります。 71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 14:54:55 ID:M8Yjj2bc0
呂后の人豚より則天武后の酒樽の方が怖い。72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 21:05:08 ID:eV4phb0t0
なにそれ?73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 21:23:14 ID:h1dontGg0
>>72 則天武后が自分の娘を殺して、その罪を王皇后と蕭淑妃になすりつけておいて
両手両足を切断し、酒の入ったかめに放り込んだことだったと思います。 76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/16(木) 23:48:31 ID:/owm887r0
武則天は、王皇后を失脚させるために、産んだばかりの自分の子供を絞め殺しているしな。
武則天を皇后に立てる時、反対した朝臣は全て悲惨な最期を迎えている。 80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/20(月) 15:00:04 ID:n6HmCdud0
>>76 反対どころか、積極的に賛成しなかった者にまで報復している。
本当に恐ろしいというか、人の恐怖心というものをよく知っていて、
それを最大限に活用して、権力を手に入れていった女だ。82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 22:49:59 ID:aa83NeyM0
中国に限らず、大陸の国々はえげつない拷問や処刑をする。
遊牧民の屠殺文化の影響を感じる。 98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/06(水) 12:55:11 ID:v98/qya30
1425年、洪熙帝が在位わずか一年で死に、朱瞻基が皇帝となる。宣徳帝である。だが、その即位直後に叔父の漢王朱高煦
による反乱が起こる。朱高煦は戦場では父親永楽帝譲りの才能を見せていたので一時期皇太子にと思われた事もあったが、
暴虐無礼であるため沙汰止みとなっていた。
若き皇帝に対する叔父の反乱は建文帝と永楽帝の靖難の変を思い起こさせ、それが漢王の自信の源ともなっていた。しかし
建文帝と違い宣徳帝は果断な人物で、臣下の勧めに従い即座に親征し反乱を鎮圧した。漢王は囚われ、監禁されたが、数年
後宣徳帝が叔父に会いに行くと、漢王は宣徳帝を蹴倒し、これに怒った宣徳帝は叔父を焼き殺してしまった。宣徳帝には果断
の裏に祖父や曽祖父譲りの残虐性があったようである。99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/06(水) 21:14:42 ID:4cDXsAa40
>>98 しかも「焼き殺す」というのが、柱に縛り付けて下から火を焚いたり、
油ぶっかけて火をつけるのとは違うんだよな。
大きな銅の甕を漢王にスッポリ被せ、周囲に炭を積んで火をつける。
つまり蒸し焼きだ。銅の甕は火勢が高まるにつれてドロドロに熔け、
漢王は骨も残らなかった。100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/06(水) 22:43:11 ID:rZrj24N/O
そこまで殺し方を追求するともはや芸術の域といえるね。
ただただ殺すことが目的でないというなら、どこまで苦しんで死んだらゴールなんだろう…。
宗教か何かが絡んでいるのかな?あの世でも苦しむように、とか…。 101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 17:07:58 ID:biOxFEel0
中国の場合、皇帝=地上における唯一の天の代理なので
それに歯向かう事が如何に大罪かを知らしめる為に工夫された酷刑が編み出されたのだろう。120 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/12(火) 14:49:24 ID:8gZxpqjvO
1900年代からの去勢って玉を取る事を指してて
肉棒の除去までは含まれないでしょ? 133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/15(金) 02:11:17 ID:BvZvecOp0
チンポコ切ると血が止まりませんよ。
玉だけじゃないか?134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/15(金) 03:43:02 ID:ye2tAhNZO
>>133 玉だけ切除しても竿があれば勃起するし、女とやれるわけだから後宮を任せられないと思う
宮刑くらった奴は尿道の確保やらなんやらが大変らしい
確保に失敗すると傷口が回復する際に尿道まで塞いで放尿できなくなり、死ぬしかなくなる
だからカンガンになるのも宮刑を受刑するのも命懸けだったって世界史の教師(中国史が専門)が言ってた136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/15(金) 14:05:48 ID:IxqtP+hWO
当時の去勢の仕方は、うろ覚えだけど、
いきなり刃物を使うと死亡率が高いから、
まず、糸で竿の根元付近を縛り、腐らせてから切り落とすって何かで読んだ。137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/15(金) 14:34:25 ID:PbUFYvYc0
女の膣を縫い合わせてしまう刑罰もあった。140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/16(土) 08:10:01 ID:EKmCT8E40
酷刑・拷問話からは話がズレるが、街中で裸に剥いた男女を売る奴隷市なんかも古代中国にはあったのだろうか。143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/16(土) 16:14:54 ID:OXdeiF4b0
>>140 例えば昔の中国には、笞刑という、竹や木の枝ようなもので、尻を叩くという刑罰が
あったんだけど、これは姦通の罪などを犯した女の罪人に対して適用された。
この笞刑を受ける女は、役所の前で、公衆の面前でズボンを脱がされて下半身を丸出
しにされ、尻を鞭打たれた。
しかも、怨みを抱いた者から虚偽の告訴をされて、無実の罪でこの刑罰を受けた女も
多かったとか。
ひどい時には、下半身丸出しのまま立たせて、わざと刑の執行を遅らせ、街の男がい
たずらするに任せる、ということもあったらしい。
この刑罰は、肉体的苦痛以上に精神的苦痛が大きく、自殺者が相次いだとか。193 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/21(日) 23:49:17 ID:Heg/8my70
殷の肘王がやった「苞絡の刑」(ほうらくのけい)(苞は別字です)
胴柱に油を塗り、炭火の上に掛けて罪人を歩かせて火中に滑り落として焚死させた
刑。渡りきれば刑を許されるが、渡れるはずはない。
鉛を耳に流し込んだ。
全身の皮を剥いだ。
目をくり貫いた。 217 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/27(土) 18:41:00 ID:XHUPq+qs0
http://turandot.ish-lyon.cnrs.fr/Event.php?ID=1 清代末期の拷問処刑、リョウチ、の写真。恐ろしいので耐えられる人だけどうぞ。218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/27(土) 20:22:53 ID:JmFQv/F90
えぐいですね~。
俺が処刑されるんだったらと思ったらぞっとしますわ。
どの辺りまで生きているのかな~?
動物は恐怖が極限まで来ると痛みを感じないといいますが、人間は
どうでしょうか??219 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/27(土) 20:59:27 ID:6m5Mz3tt0
>>218 まあ、人間も苦痛が極限まで来ると、脳内麻薬物質が出て
気持ちが良くなるとはいうけど、そこまでの段階に行くまでがなあw
ほとんどの人間は、そこまで行かないから、拷問というものが有効なわけでw 239 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 14:26:20 ID:jj31+fY/0
一応wikiにも記事があるね「凌遅刑」 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%8C%E9%81%85%E5%88%91 >凌遅刑とは、清の時代まで中国で行われた処刑の方法のひとつ。生身の人間の肉を少しずつ切り落と
し、長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑。歴代中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑とされ、
反乱の首謀者などに科された。また「水滸伝」にも凌遅刑の記述が記載されている。また、この刑に処さ
れた人間の人肉が漢方薬として売られることになっていたとされている。なお、この刑罰は中国の影響を
色濃く受けた朝鮮王朝でも実施されていた。
概要
凌遅刑の原型は戦国時代に遡れる。孔子の弟子子路が体を切り刻まれ、塩漬けにされる刑罰を受けた
と記述がある。また漢代には呂后によって韓信や英布が同様の刑罰(但し、この2名は殺害された後にこ
の刑に処された)を受けている。
法制化されたのは五代十国時代で宋代には斬首、絞首とならぶ死刑の手段とされた。
明代、清代には謀反人に対する処刑方法とされた。
この刑は「残虐である」として何度か廃止が建議されてきた。清末には西洋のジャーナリストによってこ
の刑罰の凄惨な様子が写真などで伝わり、「中国の野蛮な刑罰」と非難された。
完全に廃止されたのは光緒31年(1905年)である。 241 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 03:49:19 ID:QXm0RwGS0
誰か塩付けの刑について
詳しく教えて下さらんか・・・242 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 14:55:20 ID:cpCNYKEi0
>>241 処刑された罪人の肉(主に首)を塩漬けにして保存して晒しものにするか
部下に分配して見せしめにする刑。 275 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/17(木) 13:22:55 ID:csijItwY0
酷吏として大いに手腕を振るった胡人出身の索元礼は、「鳳凰晒翅(鳳凰羽を広げる)」と自身が命名
した拷問の方法を得意技とした。拷問を受ける囚人の両手と両足を束ねて、木の枷で締めつけながら
笞などの責め具でいたぶる方法である。
「仙人献果(仙人果実を献上する)」は、手枷を嵌めた両手を高く掲げさせておいて、その上に煉瓦を積
み重ねるものであった。
他にも索元礼は自ら考案した拷問方法に、「玉女登梯」「方梁圧?」などと名前をつけて、悦に入って
いた。
囚人を縛って逆さ吊りにしておき、髪の毛に大きな石を縛りつける。それを揺すると、痛みに加えて髪
の毛が軋み、今にも抜け落ちそうな恐怖を与えたと言われる方法も実施した。
囚人の顔にぴったり合う鉄製の籠をかぶせておいて、そのほとんどない隙間に木の楔(くさび)を金槌で
打ち込むという方法も採用している。
この楔を打ち込まれると、皮膚が破れて脂肪がぬらつき、それでも叩き込み続けると血で顔が真っ赤に
染まった。血しぶきを上げながら泣き叫ぶその囚人の姿は、地獄絵図そのものであった。
この拷問はただ痛いだけでは済まず、楔を打ち込む場所に、鼻や目の近くを選んでやると、その悲惨さ
は倍増する。脳にまで響き、少し責められただけでも吐き気を催すのだ。それでも囚人が我慢を続けてい
ると、頭蓋骨にびびが入り、ついには陥没し、頭の形が崩れ始める。277 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/17(木) 13:24:18 ID:csijItwY0
索元礼と同じように武則天に用いられた酷吏に、来俊臣や周興らがおり、告発があった者を捕らえると、
残虐な拷問を加えて、自白を強要させた。
この手法によって、それぞれ数千人を冤罪で陥れ、死に追いやった。
二人も索元礼と同様に、拷問の方法にも趣向を凝らし、より残虐で効果的な拷問の方法を次々と考え
出し、実行に 移していた。333 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/02(月) 18:32:37.17 ID:UzdulY8B0
グロや痛い拷問は多いけどエロいのは少ないな
全裸で縛って街に置いて犯し放題の肉便器みたいな
差し迫ってるとエロとかやってる場合じゃないんだろうね
つかそもそも女が拷問に会う機会って男より少ないし334 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/05(日) 10:13:53.19 ID:nrUeYxev0
裸の女の子を、じわじわと股裂き刑にするのはエロい。
みんなが見ている中で、少しずつ股を広げられてゆく。
ついには股が全開になって晒しものに。
泣き叫び、悶え苦しみながら、体が裂けるまで股の間を注視されっぱなし。
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